ウミホタルショー実行委員会設立の経緯

 1995年9月の幕張西高校文化祭のウミホタルショーのパンフレットに、次のような記載があります。


 幕張三校の「統廃合」と総合制高校構想が、初めて新聞報道されたのは、私が幕張西高校に転勤してきた1991年の前年の秋だった。薄々ささやかれていた噂が現実のものとなり、在校生たちは強い衝撃を受けた。そしてそれは、やがて怒り・憤りにと変わっていった。当時の幕張西高校の生徒たちは、行動的であり、エネルギッシュだった。まったく無視されてしまった自分たちの存在や気持ちを、様々な行動によってアピールした。この行動はさらに、自分たちの母校を守る行動へと発展していった。
 校内アンケートでは、「廃校反対」が優に9割を超えた。合唱祭でも、文化祭でも、「守ろう幕西」「廃校反対」の声が聞かれた。この年の「幕西ウミホタルショー」は、生徒たちの手作りの脚本により、生徒たちの本音が語られ、「守ろう母校!」が声高らかに叫ばれた。ウミホタルショーの校内再演にクレームがつき、これに代わって開かれた校長との討論会には、放課後の遅い時間にも関わらず、視聴覚室を埋め尽くすほどの生徒が集まった。次々に発せられる生徒たちの質問・疑問に対して、最後まで納得のいく回答・説明はなされなかった。
 生徒たちは、「幕張三高校(幕張西・幕張東・幕張北高校)の統廃合に反対します」という署名にも取り組み、瞬く間に2万を超える数を集めてしまった。総数4万を超える署名は、千葉県議会文教常任委員会に届けられたが、多くの生徒・父母・県民の願いは聞き入れられず、少数否決されてしまった。
 放送委員会は、「Silent actuality−沈黙の現実−」という番組を制作し、コンテストに出品し、全県下の高校に訴えた。幕張三校廃校反対の集会に参加し、自分の気持ちを訴えた生徒もいた。予餞会では「先生方、教育委員会の言いなりにならないで下さい。」という声を残した3年生がいた。3学年教職員も、劇の最後に「幕西FOREVER」と書かれた厚紙を高く掲げて、これに応えた。
 翌年「学校問題研究会」という同好会の設置が、評議会の全会一致で承認された。職員会議でも、長時間にわたって論議されたが、校長は最後まで、この設置を認めなかった。
 一方、1年遅れを余儀なくされたが、「総合制高校」の建設はすすみ、竣工間近である。1991年の7月1日に、教職員への説明会で話された。
 「一人一人時間割が違う、登校時の時間の違うフレックスタイム制を検討している。」
 「ホームルームなどのいき過ぎた枠を取り外す。」
 「施設や指導者を揃える。」
 「生徒がいやな思いをしないように考えている。」
 「自主的に学ぶ学校にしたい。学校に来れば勉強をしたくなるような建物にしたい。」
 「出来れば校内を光ファイバーが走るような....。」
等々は、どこへ行ってしまうのだろうか。単なる夢や絵空事で終わってしまうのだろうか。エアコンのないガラス張りの校舎の、一回りも二回りも狭い教室は、果たして快適なのだろうか。
 4年前の卒業生たちが、必死で守ろうとした「母校・千葉県立幕張西高等学校」はその歴史を閉じようとしている。新しい学校は、本当に生徒たちにとって、「幕西」を超える素晴らしい学校になるのだろうか。
(文責 科学同好会顧問 三枝十三男)

 このような背景のもとに、1992年4月に卒業生を中心として「ウミホタルショー実行委員会」が結成され、6月には第一回公演が行われました。
 そして、幕張西高校はそれから4年後の1996年3月にその歴史を閉じました。


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